プレスリリース
独立行政法人水産総合研究センター
-ノリ色落ち原因藻の防除技術開発に光明-
【要旨】
有明海で主に冬季に赤潮を形成する珪藻類の一種であるリゾソレニア・セティゲラに特異的に感染し死滅させる新奇ウイルス「RsV(リゾソレニア・セティゲラ・ウイルス)」の分離培養に成功した。これまでのウイルス研究の歴史の中で、珪藻類を宿主とするウイルスの発見ならびに分離培養は、いずれも世界で初めての事例である。
この成果は、NEDO平成14年度産業技術研究助成事業および農林水産省民間結集型アグリビジネス創出技術開発事業の支援の下、独立行政法人 水産総合研究センター 瀬戸内海区水産研究所 赤潮環境部 赤潮生物研究室と株式会社エス・ディー・エス バイオテックとの協同により得られたものであり、2002年度日本プランクトン学会大会(2002年9月28日, 於 北海道大学水産学部)において公表される。
RsVは、宿主であるリゾソレニア・セティゲラに対してきわめて特異的(選択的)に感染し、宿主細胞内で約4?5日間のうちに14,000倍程度に増殖して、宿主細胞を崩壊させる。宿主細胞の崩壊とともに環境中に放出された子孫ウイルスは、まだ感染を受けていないリゾソレニア・セティゲラ細胞に感染し、同様に細胞内で増殖してこれを崩壊させる。しかしながら、RsVはリゾソレニア・セティゲラ以外の微細藻類(珪藻類を含む)に対しては感染しない。
平成12年度に有明海で発生したノリ色落ち現象は、ノリ養殖に甚大な被害をもたらした。この原因は珪藻赤潮によるものと考えられており、リゾソレニア・セティゲラはその構成種の一つであったことが明らかとなっている。本ウイルス(RsV)を用いることで、リゾソレニア・セティゲラの選択的駆除が可能になるものと期待される。
RsVの発見・分離は、自然界での珪藻類の増殖・死滅にウイルスが関与している可能性を示す新知見であり、これにより珪藻とウイルスの相互関係に関する新たな研究を進めるための道が開かれたこととなる。また、リゾソレニア・セティゲラ以外の珪藻に感染するウイルスの分離を試みることで、将来的にはノリ色落ちの原因となる珪藻類を防除するための技術開発に繋がるものと期待される。
独立行政法人 水産総合研究センター
本部 研究推進部 業務企画課 広報官 梅澤かがり TEL:045-788-7529
瀬戸内海区水産研究所 企画連絡室長 山田 久 TEL:0829-55-0666
赤潮環境部長 杜田 哲 TEL:0829-55-0666
赤潮生物研究室 長崎慶三 TEL:0829-55-0666
研究内容の説明
背景と目的
・ 平成12年度に有明海で発生したノリ色落ち現象は、ノリ養殖に甚大な被害をもたらした。朝日新聞社の統計によれば、福岡・佐賀・長崎・熊本の4県・ における平成12年度のノリ生産額は約272億円と、平成11年度の生産額408億円に比して約136億円の減少となった。ノリ色落ちの原因は、珪藻赤潮による栄養塩の枯渇・ によると考えられており、本件は赤潮による水産業への被害としては国内最大規模のものといえる。こうした背景の下、ノリ色落ち現象に対する早急な対策の構築が望まれている。
・ 毎年有明海では冬季から春期にかけて珪藻赤潮が発生し、ノリの色落ちとともにノリ養殖は終期を迎えるのが通常だが、平成12年度には例年より2カ月以上も早く12月から珪藻の大量増殖が起き、ノリが必要とする栄養分が珪藻に先取りされたためノリ色落ち被害に繋がったものと推測されている。
・ 平成12年度冬季珪藻赤潮の最優占種はリゾソレニア・インブリカータであり、これ以外にも近縁のリゾソレニア・セティゲラ、キートセロス属、スケレトネマ属等、数種の珪藻類が混在していたことが確認されている。平成12年度冬季に有明海で発生した赤潮では、今回発見されたウイルス(RsV)の宿主であるリゾソレニア・セティゲラは、最優占種リゾソレニア・インブリカータに次ぐ(インブリカータの7?23%程度の細胞密度で存在した)主要構成種であった。
・ ノリ色落ちの原因は、リゾソレニア・インブリカータ、リゾソレニア・セティゲラ、キートセロス属、スケレトネマ属等の珪藻による栄養塩の消費により、十分な栄養塩がノリに供給されなかったためと考えられる。生物量が最も大きかったことから、今回のノリ色落ちの主犯格としてリゾソレニア・インブリカータが疑われている。
・ 人為的に珪藻赤潮の種組成ならびに生物量をコントロールする技術は未だ確立されていない。
・ 発表者らは、平成12年度に有明海で発生した珪藻赤潮の構成種リゾソレニア・セティゲラに特異的に(選択的に)感染し死滅させる新奇ウイルスRsVの分離培養に成功した。本ウイルス(RsV)を用いることで、リゾソレニア・セティゲラの選択的駆除が可能になるものと期待される。今後は、本ウイルスに関する生理・生態・分子生物学的性状解析を推進するとともに、リゾソレニア・セティゲラ以外の珪藻(例えばリゾソレニア・インブリカータ等)に感染するウイルスの分離を試みることで、ノリ養殖に有害な珪藻類を選択的に防除する技術を開発することを目的として研究を進める。
手法(概要は添付図1を参照)
・ 平成14年4月に有明海佐賀県・ 海域(大浦港沖)で採取した試水を0.2?m孔径フィルターで濾過後、珪藻類24株に接種した。その結果、リゾソレニア・セティゲラを死滅させるウイルス(RsV)計9株を分離することに成功した。
・ 9株のウイルス培養の最大収量(どの程度の密度で感染性を持つウイルス粒子が生産されるか)を測定した。
・ 得られたウイルスおよびウイルス感染細胞の電子顕微鏡観察を行った。
・ 一段階増殖実験により、ウイルスのバーストサイズ(1個の感染細胞中に作られる感染性ウイルスの粒子数)および潜伏時間(感染から細胞の崩壊までに要する時間)を調べた。
・ 海産微細藻類32種43株(珪藻類を含む)を用いてウイルスの宿主範囲を検討した。
・ 4℃暗所に保存した場合のウイルスの安定性を検討した。
具体的データ
・ 分離されたウイルスRsVは、粒径24nm(1nm=百万・ 分の1㎜)の正二十面体構造であった。尾部・外膜構造はみられなかった(添付図2F)。
・ RsVに感染したリゾソレニア・セティゲラ細胞内には、多数の小型ウイルス粒子が観察された(添付図2E)。
・ RsVの最大収量は1mlあたり約4億感染粒子であった。
・ RsVによる感染を受けた後、宿主細胞は約4?5日間で死滅し、その際1細胞あたり約14,000個の子孫ウイルスを放出した(添付図3の結果より算出)。
・ ウイルス感染を受けたリゾソレニア・セティゲラ細胞は、色素の分解に伴う退色を呈し、細胞によっては物理的破損・ が見られるケースもあった(添付図2B,C,D)。
・ RsVはリゾソレニア・セティゲラに対して特異的(選択的)に感染し、リゾソレニア・セティゲラ以外の海産微細藻類31種(珪藻類を含む)には全く影響しなかった(添付表1)。平成12年度冬季に有明海で優占した近縁種のリゾソレニア・インブリカータには、RsVは作用しなかった。
・ RsVは4℃暗所できわめて安定に保存することができた。すなわち、本ウイルスの安定性は高く、感染性を保った状態での保存が容易であることが明らかとなった。
考察及び今後の展望
平成12年度の有明海におけるノリ色落ち現象の原因となった珪藻赤潮の構成種であるリゾソレニア・セティゲラを宿主とするウイルスが発見・分離された。ウイルス研究の歴史の中で、珪藻類を宿主とするウイルスの発見ならびに分離培養系の確立は、いずれも世界で初めての事例である。この発見は、藻類の中の主要なグループである珪藻類の動態(量的推移・優占種の遷移など)にウイルスが影響している可能性を示すものである。
分離されたウイルス「RsV」は、リゾソレニア・セティゲラに対してきわめて選択的に感染し、高い増殖能力を示す。RsVによる感染を受けたリゾソレニア・セティゲラは、退色し、増殖能力を失うとともに、細胞内で新たなウイルス粒子が生産され、最終的に死滅に至る。すなわち、RsVはリゾソレニア・セティゲラに対してきわめて特異的かつ効率的に作用する天然の致死因子であると理解することができる。
このウイルスを作用させることで、天然環境中のリゾソレニア・セティゲラを選択的に防除することが可能であると考えられる。また、本ウイルスに関する生理・生態・分子生物学的研究を推進するとともに、別種の珪藻(リゾソレニア・インブリカータ等、冬季赤潮を構成する種類)に感染するウイルスの分離を試みることで、将来的にはノリ色落ち現象の原因となる珪藻類を人為的に防除するための技術開発に繋がるものと期待される。
なお、本発見については、「赤潮原因珪藻リゾソレニア属に特異的に感染して増殖・溶藻しうるウイルス、該ウイルスを利用するリゾソレニア赤潮防除方法およびリゾソレニア赤潮防除剤、並びに該ウイルスの単離方法、継代培養方法、および保存方法」として9月19日に特許出願を完了した【特願2002-272413, 出願人:独立行政法人水産総合研究センター(理事長:畑中 寛), 株式会社エス・ディー・エス バイオテック(代表取締役社長:白井 孝)、発明者:長崎慶三・片野坂徳章・外丸裕司・山口峰生】。
【用語説明】
ウイルス
宿主細胞に対し特異的に感染し増殖する微細な生物因子。ウイルスが「生物」であるか「無生物」であるかは学者間でも意見が異なるところであるが、宿主細胞への感染なしに自力で増殖することができないという点を考えれば、無生物(生物の一つの部品)と位置づけるのが適当と考えられる。ウイルスが持つ高い感染特異性は、現場への適用を考える上で「安全性」という点で必要不可欠な条件を満たす。形態・ゲノム構造は多様である。
珪藻
淡水及び海水に生息する代表的な植物プランクトン。細胞の1つ1つは珪酸(ガラス)質の殻で覆われており、一般に上下2枚の殻が重なって弁当箱のような構造を持つ。細胞の大きさは数マイクロメーターから数百マイクロメーターである。藻類の中でも、渦鞭毛藻(赤潮・貝毒原因種を含む主要なプランクトンのグループ)と並び、きわめて多様かつ巨大な生物群として位置づけられる。海産珪藻の中には、赤潮を形成する種類が多数含まれる。
リゾソレニア・セティゲラ
リゾソレニア・セティゲラは、比較的冷水期に増殖がみられる赤潮原因珪藻の一種である。有明海においても、冬季に増殖するケースが多く、これまでにもしばしば、ノリ色落ちの原因となった冬季赤潮の構成種としてリゾソレニア・セティゲラの発生が記録されている(平成3年1-3月、平成5年2月、平成6年2月、平成7年1-3月、平成12年12月?平成13年3月)。同属のリゾソレニア・インブリカータときわめて近縁な種類である。
ノリ色落ち現象
ノリは藻類の一種であり、海水中の窒素やリンなどの栄養分を吸収して生育する。しかし、ノリ養殖が行われている環境下で珪藻赤潮が発生し、窒素やリンなどの栄養分が珪藻類により過剰に摂取された場合、ノリの栄養状態が悪化し黄変等のいわゆる「色落ち」と呼ばれる状態を呈する。色落ちを起こしたノリは、その色調の変化により商品価値が著しく損なわれる。
赤潮防除技術開発
赤潮の原因となるプランクトン種は多様であり、プランクトンの種類によって被害を受ける水産生物の種類も異なる。赤潮に対する具体的な方策は未だ確立されておらず、赤潮発生時の餌止め、養殖筏・生け簀の清澄な海域への移送など、現場漁業者の知恵で編み出された工夫で凌いでいるのが現状である。しかしながら、しばしば数十億円規模の大被害が発生し、赤潮に対する具体的な対策の構築が望まれて久しい。
近年、赤潮原因プランクトンを宿主とするウイルスを用いた「環境に優しい赤潮防除技術」の開発を目指した研究が進められている。水産総合研究センター瀬戸内海区水産研究所赤潮環境部ではこれまでに、今回紹介したRsVを含め4種類のウイルスの分離培養に成功した。これらのウイルスを上手く利用して、海域の利用特性に応じた赤潮防除を行うための基礎研究および応用研究を推進している(次頁表参照)。
発表者らが分離培養に成功した「赤潮プランクトンを宿主とするウイルス」 | ||||
ウイルス | RsV | HaV | HcV | HcSV |
宿主生物 | リゾソレニア・セティゲラ(珪藻) | ヘテロシグマ・アカシオ(ラフィド藻) | ヘテロカプサ・サーキュラリスカーマ(渦鞭毛藻) | |
宿主生物による 水産被害 | ノリ色落ち | 魚類へい死 | 貝類へい死 | |
宿主生物による 被害の例 | 有明海(平成12年度)、生産額約136億円減(前年比) | 鹿児島湾(平成7年)、カンパチへい死、被害額約10億円 | 広島湾(平成10年)、カキへい死、被害額約39億円 | |
ウイルスの大きさ | 24 nm | 202 nm | 197 nm | 27 nm |
ウイルスの形状 | 正二十面体 | 正二十面体 | 正二十面体 | 正二十面体 |
ウイルスの感染 特異性 | きわめて高い | きわめて高い | きわめて高い | きわめて高い |
ウイルスの増殖 部位 | 細胞質 | 細胞質 | 細胞質 | 細胞質 |
ウイルスの保存性(安定性) | 高い | やや低い | やや低い | 高い |
殺藻性 | 強い | 強い | 強い | 中程度 |
バーストサイズ* | ~14000 | 770 | 2000 | ~43000 |
潜伏時間** | 4~5日 | 1~2日 | 2~3日 | 1~2日 |
備考 | 珪藻に感染するウイルスはRsVが初めての発見。 | ヘテロシグマ・アカシオに感染するウイルスは日本のHaVとカナダのHaNIV。ラフィド藻を宿主とするのはこの2例のみ。 | ヘテロカプサ・サーキュラリスカーマに感染するウイルスはHcVとHcSVの2例のみ。渦鞭毛藻を宿主とするウイルスの分離成功例はこの2つだけである。 |
*1個の感染細胞中に作られる感染性ウイルスの粒子数
**ウイルスが感染してから細胞が崩壊するまでにかかる所要時間